「ケイ素にまつわるとりとめのない話」

「ケイ素にまつわるとりとめのない話」
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地球上の二酸化ケイ素を溶かしてできたのが、ガラスである。
つまり、砂である。あなたのその前にある透明なガラス製コップは、もともと、砂であった。どこの砂だったであろう?おそらく、純度の高い砂であるだろうから、オーストラリアとかその辺りの海岸であっただろう。あなたの前のガラスは、オーストラリアの景色を知っているガラスなのだ。
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砂と少しの他の原料とを混ぜて高温で溶かすと、
「透明」が出来上がるのだ。
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私はガラス工芸とは別にたまに大学の研究室で、
理系の研究で金属シリコンを扱っている。
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金属のシリコンも、ガラスも、元を辿れば
ケイ素に行き着く。英語名をシリコンという。
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シリコンの日本語訳を作ったのは宇田川榕庵
1798年4月24日- 1846年8月13日)という人で、
舎密開宗」という本で「珪土」と呼んだという。
ちなみに、舎密開宗―復刻と現代語訳・注 (1975年)は
2020年2月現在、アマゾンで最低金額42000円で売られている。
(彼は、それまで日本になかった植物学、化学等を初めて書物にして紹介した人物、らしい。)
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金属シリコンもまた、完全な透明ではない。
というよりは、ほぼ鏡を塊にしたような見た目だ。
この塊を見ながら私はおもう、
「あなたも透明になれるの・・・?」
それに先生たちは答えるだろう、
「原理的には可能です、ただ実際のプロセスはとっても大変ですが。」
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透明と不透明の間に、
絶対的な揺るぎのない存在としての差異がないことに
驚く。
ただ、ミクロな視点で見たら、原子の移動があって成り立っているのだから、もはやそれは揺るぎない存在ではなく、
存在を構成する全ての物が入れ替わりながら生きていると言えるのかもしれない。
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人間だって一緒だ。
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ああ、永遠はない。
私はため息をつく。

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ちなみに、純粋ではない砂、
つまりいろいろな金属元素を含む砂(これらを不純物が多い、という。)を溶かすと、透明ではなく色がつくことがある。
不純も、それはそれで美しい。
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いろいろな存在がいると、
実際に「色」が生まれるということだ。
色は単純な装飾ではない、
そこにそれがあるという、
物質の絶対的な存在自体を示すのだ。