反応が無いことは何も無かったことを意味しない

いま、電車で新橋駅を通り過ぎている。
空は透き通っていて、白く飛行機が天高い所で過ぎ去って行っている。気持ちの良い秋の日だ。東京の道を歩くのは疲れるけれど、電車で眺めるのは好きである。いま、萬世橋が見えたような気がする。

数日前に知人から優しさに溢れた便りがきた。
ある意味では鋭い内容だけれど、先生が先を見据えて生徒に迷わせる時間を持たせるかのように、あらゆる所から愛情のある便りだった。

すぐに礼の返事をすべきかもしれないけれど、
こういう時はなおさら返事を出せなくなる。
深く染み入ったものを言葉にするには、時間がかかる。もしかしたらこの先ずっと私は返事をできないかもしれない。


これは、前にOJUN先生の作品を見た時の反応と一緒だ。作者を目の前に作品に対峙して、電車を乗り継ぎ家にたどり着いて、家でわたしはおいおいと泣いた。感じ入ったからだ。
でも、そのことは一言もお伝えしていないし、この先も言えないかもしれない。


こういうことが、逆に誰かのもとに起こっているかもしれない。自分から出た何かを起点として。いいことなのか、悪いことでなのか、それは分からない。でも、反応が無いことは何も無かったことを意味しないのである。