利根川


 わたしが居る場所には、利根川という名前のついた川がある。川があると言っても、実際にはそこに川はない。いまこの7秒間にわたしが目にした水たちはもうここには居なくて、既に数十メートル先に進んでしまった。この先も彼らは移動しつづけるのだろう。わたしたちは、流れる水を見ているのだ。彼ら-川-は実は存在していない。


 話が変わるが、川にも性格があると思う。利根川はさっぱりとしている。彼、あるいは彼女(利根川はとても中性的な雰囲気の存在だ)はどうやら私にあまり興味がないように見える。人間にあまり興味が無いのかもしれない。多摩川とは少し違うのだ。多摩川はもう少し私たちを見ている。私たちも多摩川を親しく思うし、きっと多摩川も私たちを近しい存在として感じているに違いない。多摩川は、居酒屋に行ってお酒だって飲んだりしそうなパーソナリティを持って居る。

 利根川はもっと、自然に近いのだ。私たち人間とは遠い。

 当たり前だ、川は自然なのだから。

 利根川は、おそらくだが人間よりは月と仲が良いし、月に好意を持って居る様だった。ある晴れた日の夜、私は月の浮かぶ空気の中で利根川が生き生きと存在するのを見たことがある。まるであの世の景色の様だった。

 そういえば、私はある時期に毎日家に帰る前に利根川のほとりに立ち寄っていた時期があったのを、今、思い出した。なんとなく元気の出ない時期で、私は特別に川に用事がなかったけれど、その時期必ず川辺に立ち寄った。終電で帰って来て12時を過ぎた頃でも寄っていた。立ち寄って、私は何もしなかった。何もせずにぼーっと川のそばに座って、橋を渡る常磐線の明かりを見たり、利根川と相思相愛のお月様を見たりして過ごす日々がまとまってあった。どうしてそんなことをしていたのかはわからないけれど、そうだった。おそらく私にはそれが必要だった(利根川はきっと私を必要とはしていなかった様に違いない。多摩川だったら、少しくらいは私を恋しく思ってくれるかもしれないけれど。利根川のことを嫌いなわけではない。ただ、利根川はあまりにも私たちと違う時間の流れを生きて居るのだ。)


 おそらく、私と利根川の関係はこの先もこの様な少々クールな距離を保つだろうが、それでよいと思う。利根川は変わらずにクールにこの世を流れ続けるのだ。私がどんな態度をとろうと、川べりで物思いにふけろうと、どうしようと、それに関係なく変わらずにクールに流れてゆく(しかもきっと永遠に近い年月の間)存在が居ることは、おそらく私たちにとって大きい目で見たとき、幸福であるだろう。