わたしは養老孟司先生のファンなのですが先生は虫がお好きで標本を作られています。お寺で虫供養もなさっている。
標本づくりとは違いますが、夏は蚊やG(伏字)の季節ですね。わたしも家で予防としてスプレーをしますが見ていないだけで見えていない部分で殺傷を行うのと同じかも。お野菜は無農薬でやっているけれど、G対策はしている。。。矛盾、かもませんね。。でも、Gなどは見て考える1秒よりも先に、身体がびっくりしますね。速いからというのもあるけど、長い人類の歴史の中で人間の遺伝子に情報が入っているのではなかろうか。嫌悪してしまう情報が?だからといってすすんで殺してオーケー、とはならないでしょうが、、
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色々調べていたら以下のようなニュースをみつけました。虫駆除のお薬などを行う会社の方々が虫駆除を行なっているとのこと。
この会社の取り組み素晴らしいと思います。
https://business.nikkei.com/atcl/report/16/061100222/101700011/
生きていて葛藤、矛盾がうまれるのはあたりまえと思います。
供養というのはなにも霊的なことを信じる信じないとはまた別に、これは養老先生もおっしゃっていますが(言い方がちがうかもだけど)、いま生きている自分から出てくる感謝のことだと思う。虫の幽霊(ははは)がいるとかいないとかそういうことではなくて「ごめんなさい」の気持ちから自然にでてくることと思いますね。
供養しておけばなんでも悪いことしておっけー、の順番ではなく生きていてどうしてもでてきてしまう矛盾みたいなもの、それを思って感謝したりごめんなさいが出てきた時にでてくる祈りみたいなものが供養となるのだろう。。
イベントではなく心のうごき...
そして、顕微鏡観察が趣味なのでわかるのですが、園芸の土にはすごい数の虫がいる。家のあらゆるところに小さい虫(ダニなど?)がいる。綺麗に見えていてもいない家はないと思います。無菌室以外は。。少ないか多いかの違いでしょう。。それを考えすぎると生活することが怖くなってしまうのであまり考えない方がいい(笑)
ということで、自覚していない時間にも確実に生きているものは殺傷してしまっている。
意識的に楽しんで殺す、苦しんでいるのを見てそれを見るのが楽しくていじめる(子供とかは虫に対してこういう反応する時期はだれだってあるかも)、そういうことをしないというところが大事だろうか。
と 思いました
どうしても殺めてしまうときもある。
意識的にも無意識でも。
それと同時に、矛盾をかかえながらも感謝やごめんねの気持ちをもっていきてゆくのかな。
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あと、
わたしはまぁ、おばけ、いるとおもうけど^^
それはまたちょっとちがう話とおもうです
最近仏教の本をたくさん読んでいるから
どうしてもこういうこと考えたりしますね。
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https://business.nikkei.com/atcl/report/16/061100222/101700011/